カウンターがあった形跡
えいさくさんは名義を残さなかったためわからなかった。勝沼学校をつくったときの関係者 松木てるしげとこの時に顔見知りになる。
出来たとき勝沼郵便電信局、田中えいさくさん明治13年、勝沼と等々力の組合の二代目の長(こちょう)
松木てるしげ築
下山大工の松木照るし下さんがこの建物を建てたとされる根拠がこの設計図面にもある 図面を持ち出した
ペンキ木目を施したとある。
薄いのから順に濃いのを何重かにしてそれにへらで濃淡をつける。寄せ集めると濃くなる
ここにもペンキ木目 本来であればこの戸もペンキ木目だと思われる。再塗装されたのであろう
乾かないうちにへらで削り取る手法。薄いペンキをまず塗ってその上に濃い色。山梨県内でこのペンキ木目があるところはほとんど残っていない。
柱八角形 幾何学模様は和式にはない、その上にはマス(とます)、雲形もある、天井はヒシゴウシ、
和洋折衷、宮大工の・・・
ソバン石、禅宗系のお寺では使われる。
扉形式、窓ガラスしかも上下に開け閉め
明治9年ごろからイタガラス それ以前は外国産 明治30年ごろからビンが。ここは国産の板ガラス

まぎれもなく疑洋風建築
コンクリのテラスの上にあるべきものがポーチの上に。このポーチ自体も古い。
壁は土蔵建築の方法で疑洋風。白漆喰の上に砂をまぜた漆喰を塗った。石積みを表現するために
すな漆喰??モダンを求めた
窓の上はキーストンを現している
もともとは円形のまど、今は楕円形の模様に退化
湾曲。日本建築の土蔵はまっすぐ。
軒下にカーブをつけるのも洋式。見よう見まね
このテラスの上に上の三角の屋根がくるべき
このフェンスも一枚の写真をもとに復刻した。戦争中に供出された。外壁の白いところは黒く塗らされた。
ラーメンどんぶりにあるような雷門が軒下に描かれている
復元したもとの写真手をかけてたっていた田中こうさくさん 新渡戸さんも移っている
ここに扉が付いていたはず、しまった状態での写真がないためオリジナルを復刻できず。横のフェンスの中には田中というデザインが 丈夫にはアーチが
換気口もしゃれている
石のつなぎ目にも 面をとった加工がなされている
友の会の向山さんのアイディア。お遊び瓦
ここは書類倉レンガ造り

書類倉と繭倉、かつては米蔵2棟もあった
お金を貸してまゆとしてもらった。


銀行として大正9年銀行として
郵便局時代のカウンターをはずして、柱をずらして銀行らしいカウンターに。向って正面にあった鉄砲階段を右に写し螺旋階段にした。窓が開けられなくなったのでキャットウオークをつくった。
昭和11年ごろまで銀行として機能。
戦時下で中銀に統合廃止。
次は住宅に。壁などを取り付けた
戦争中に、田中こうさくさん、戦争中に北白川の宮と知り合う、ここで軍事演習やるときは逗留場所、宮は(フランスで車を運転して事故死)奥さん本家に疎開。ここ田中銀行に娘二人と侍従(にとべさん) 娘のひとりの娘は徳川家、ひとりは東園家に嫁にいった。戦争終わりは皇族は招集がかかり戻ったので侍従のにとべさん。工作さんの息子さんいっさくさんが満州から戻って生活、そのご貸し出し。

最後は勝沼小学校の民俗資料の保管場所。

文化財と登録されるときに町に寄付
この電気カバーがオリジナル

この天井に実はガラスの板がはめ込んであった。室さんこの部分の異変に気がついていたが、はずして邪魔になっていた3枚のガラス板を処分してしまった。
いっさくさんの弟さんの家にお邪魔したときに「2回に登ったら廊下から下が見えた!」と聞いて「しまった!」と思ったがあとの祭り
神棚に石油ランプ
早川さん宅から出てきた
反物の型紙。
文明開化、など明治に取り入れられた、明治をからかった言葉。鶴にみえるのがアルファベットの文字medetaya medetaya 伝統的な反物にローマ字を併せてからかった
頭取の執務机
各地の絵葉書を学校の先生が集めてきた絵葉書などが戦時下の情報統制で没収されたが隠していたのものが残されてある。
麻の編み物の上に模様を描いたもの

現存して人が乗れる状態で残っているのはここにしかない。
明治建築(古建築)を研究している人にはめんたま飛び出る
分銅によるアジャスタブル(電球取替え用)
ソファーベッド
尾張徳川家に嫁入りした北白川宮の娘さんか持参した寝具 葵の御紋(徳川)
皇族の方が使っていた部屋
レースのカーテンがあった。カーテンレールはオリジナル
下の段のこの布団
かけらを20cmx20cm骨董屋さんにうれば一枚1500円でうれる。骨董屋さんが狙うのはまず布団。
陶器の取っ手
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